現代の札幌の地より島義勇を想う

札幌観光の大ヒント
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都会となった現代の札幌から島義勇を想う

元号が「明治」に変わったのは
1868年の事。

その頃、今の札幌の地はアイヌ民族や
和人が少しいた程度で、ほとんどが
原野でした。

雪も多い極寒の北国。

そんな地に島義勇(しまよしたけ)さんは
判官としてやって来たのです。
それは1869年の11月(旧暦の10月)の
事でした。

「判官」の立場は、今風に言うと
「札幌の都市開発最高責任者」
であろうか?

島義勇さんは今の札幌の地を
「いつの日か世界一の街になるであろう」
と予想して、壮大な計画で街づくりを
始めました。

 

ところが島義勇さんは翌年の3月に
解任され、わずか3ヶ月ほどの滞在で
札幌を離れる事に、、

 

この頃は明治が始まったばかりの
混迷と混乱の時代。

島義勇さんをはじめ、どんな人達が
札幌の初期の開拓にかかわっていたのか?
調べてみると、とても面白い時代背景が
見えて来ましたよ。

 

札幌の開拓初期に何があったのだろう?

 

今回、そんな疑問から出来るだけ簡単に
状況の流れをまとめました。

札幌の始まりってこうだったんだ!」
と、少しでも知ってもらえれば
嬉しいなあ~。
(僕も日々勉強中、、)

  

では行きましょう。(^^)

島義勇さんはどこ出身?

「島義勇さんって、どこ出身の人?」

まずはそんな疑問から。

 

はい、島さんは現在の
佐賀県出身でありました。

当時、この辺りは佐賀藩(肥前藩)です。
また、藩主が鍋島家だったので
鍋島藩(なべしまはん)とも
呼ばれています。

島義勇は当時の藩主、鍋島直正の部下
でありました。

・明治元年(1868年)時の2人の年齢

鍋島直正(藩主) 53歳
島義勇    46歳

 

江戸の終わりに幕府が倒された時、
明治維新を推進した藩が4つあります。

昔、歴史の授業で次の言葉を聞いた事が
なんとな~くありません??

「薩長土肥(さっちょうどひ)」
 

これは、

・薩摩藩
・長州藩
・土佐藩
肥前藩(←さっきの名前が出て来た!!)

の頭文字ですね。

この4藩が、新政府が始まった時の
国家運営の中心になりました。
(特に薩摩、長州が強かったのですが)

「幕末には九州や四国の藩が、かなり強い
 日本改革への意識を持っていた」と
高校の授業で習った記憶があります。

島義勇さんも、
「ロシアが南下してくる前に、北海道の
 街づくりを早急にしなければならない!」

との強い気持ちがあったのでしょう。

 

島義勇と東久世通禧の関係

ではここで、もう一人重要な人物が
おります。

その人は東久世通禧さんです。

難しい漢字の人ですね、、
読み方は、
「ひがしくぜ みちとみ」
言います。

(著作権の関係でネット上の写真を
ここに出せませんが、Google画像検索で
本人の写真が見つけられます)

「なぜ急にこの人の名前が出て来るの?」
と思うでしょうが、東久世さんも
この時代の超重要人物なのです。
 

島義勇さんが札幌に来たのは
1869年の冬。(明治2年)
その時は上司にあたる
「鍋島直正」(藩主)が開拓使の
初代長官でした。

改革意識の高い肥前藩の藩主と
その部下の理想的な体制の完成です。

 

しかし、、

鍋島直正藩主は体の調子が良くなく
北海道に来る事が出来ませんでした、、
(その2年後、1871年に56歳で
亡くなっています)

なので、就任後ひと月程で次の
開拓使長官に交代になって
しまったのです。

その「次の長官」になった人が、
東久世 通禧(みちとみ)さんで
ありました。

その時、東久世さんは35歳。
 
島義勇さんが47歳ですから
10歳以上歳が離れていたのが
分かります。

 

島義勇が解任されてしまう

その後、島義勇は任務を始めてから
3か月後に「解任」となってしまいます。

僕は
「島さんはずっと札幌にいたのかな?」
と思っていたので、これは
意外な事でした。 

 

「どうして解任になったのか?」

島義勇さんの経歴を書いたものには
「開拓費を使いすぎたから」との話が
よく出ていますが、おそらくそんな
1つの簡単な理由ではないはずです。
(僕もまだまだ調べなきゃならない
 事ですが)

「理由は○○である!」と
言い切れないのが歴史の
面白いところ。

出身地、立場や年齢の違いや
開拓に対する考え方。
(東久世さんとの関係も?)
 
また、北海道と遠く離れた
本州の政府との認識の違い。

複雑な要因があったのであろうと
思います。

 


今は人口197万人の都会になった札幌。
島判官は札幌がこうなる事を予感して
いたのでしょうか、、(^^)

 

島義勇の功績は札幌の地に

前回のブログで紹介しましたが
島義勇の銅像が札幌市内の
2ヵ所にあります。
(北海道神宮と札幌市役所)

≫≫銅像の詳しい話はこちら

また、島判官の紀功碑(きこうひ)も
北海道神宮内にあるのですよ。
(紀功碑‥功績をしるした石碑)

 

石碑の後ろ側にはこの文字が記載されて
います。(右上から縦読み)

「島判官建碑寄附芳名」

 

そして、同境内の開拓神社にも
島判官の名前があります。

 

「北海道開拓の功労者 三十七柱」

島義勇さんの右側に、藩主であった
鍋島直正さんの名前もありますね。

 

また、東久世通禧さんの名前も
きちんとありますよ。

 

ここまで、かなり大きな流れの話と
なりましたが、島義勇さんの事が
分かってもらえたかと思います。

150年前の札幌の歴史。

まだまだ知らない事は山ほどあるので、
僕も引き続き勉強してみますね。(^^)

 

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